2012年4月23日月曜日

バラ十字会の歴史19


その10 バラ十字運動とフリーメーソン、エジプトとエッセネ派とテンプル騎士団の起源(後半)

クリスチャン・レビッセ F.R.C.

黄金のバラ十字

 最初のバラ十字会(Rose-Croix)が現れたのは、1700年から1750年の間のヘルメス学の相当な発展と錬金術の後押しの下(もと)でのことであった。ザクセン(Saxony、ドイツ東部)、シレジア(Silesia、ヨーロッパ中東部)、プロイセン王国(Prussia、ドイツ北部)、オーストリア(Austria、ヨーロッパ中部)、バイエルン王国(Bavaria、ドイツ南東部)では、錬金術師たちの集団が数多く形成されていった。ウィーン市内(Vienna,オーストリアの首都)には数千人の錬金術師たちが暮らしているとさえ言われていた。その錬金術師たちのほとんどが、バラ十字思想から霊感を得ていると主張していた。そういった集団の中のひとつに、ニュルンベルク錬金術協会(Alchemical Society of Nuremberg)があった。ある著述家によれば、ライプニッツ(Gottfried Wilhelm von Leibniz, 1646-1716)はこの協会の事務局長であったという。

 1710年、「アンダーソン憲法」が出版される7年前に、敬虔主義傾向の、そして伝えられるところによればパラケルススとヤコブ・ベーメの信奉者であったというルター派教会牧師シンセールス・レナートゥス(Sincerus Renatus、本名Saumel Richter)が「友愛組織黄金バラ十字会の、〈哲学者の石〉のための真の完璧な準備(Die wahrhafte und volkommene Bereitung des philosophischen steins der Bruderschafft aus dem Orden des Gulden und Rosen Kreutzes)」を出版した。この錬金術論文は実験室での諸実践から成り、「黄金のバラ十字会」を統括するための52条の会則が付録としてつけられている。この会憲には、会員は63名を超えてはならないこと、会は選出された終身制の統領によって指導されることなどが記されている。レナートゥスは序文で、この論文は彼自身が書いたものではなく、氏名を明かすことのできないある「術の教授」から提供された手稿から写し取ったものであると述べている。彼はまた、この会にはニュルンベルク市(ドイツ南部)とアンコーナ市(イタリア中部)に二つの中枢部があったが、数年後に会員たちはもっと平穏な環境を求めてヨーロッパを離れ、インドへ旅立っていったと述べている。

 レナートゥスによるこの著書は、ユリウス・スペーベー(Julius Sperber)の「〈創造主〉が啓発し賜うた尊いバラ十字組織のこだま(Echo der von Gott hocherleuchteten Fraternitet, 1615)」と、ミヒャエル・マイヤー(Mychael Maier)の「Themis Aurea(1618)」に霊感を受けたものであった。また、この著書は1577年に設立された錬金術組織「離れがたい者たちの会(Order of the Inseparables)」の会則のいくつかを借用していた。実際、レナートゥスが述べていた組織が全く存在していなかったとは言えないようである。ちなみに、彼が取り上げた「黄金バラ十字会」の名称は、ペトルス・モルミウス(Petrus Mormius)が1630年に出版した「Arcana Totius Naturae Secretissima(自然の秘密の全て)」の中で既に使用していたことをここに記しておこう。1622年に三人の会員から成る「黄金のバラ十字会」と呼ばれる秘密団体をドーフィネ市(Dauphine;フランス南東部)在住のフレデリック・ローズが設立したという伝説の作者はモルミウスであった。「黄金のバラ十字会」という語句は世間に比較的よく知られるようになり、その会規のいくつかは、もっと後のメーソンバラ十字会の「バラ十字騎士団(Prince Knights of the Rose-Croix)」の段位の中に見出すことができる。


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金羊毛騎士団

  バラ十字会が存在するようになって何年か後の1749年に、ヘルマン・フィクトルド(Hermann Fictuld)は「Aureum Vellus」を出版し、その中で黄金のバラ十字団について触れ、それはブルゴーニュのフィリップ善良公によって1429年に設立された金羊毛騎士団の継承者であると説明した。1757年頃、フィクトルドはSocietas Roseae et Aureae Crucis(黄金バラ十字の友愛組織)というメーソン儀式の分派を設立し、そこでは錬金術と敬虔主義思想を学ぶことができ、教義は一連のバラ十字段位から成っていた。この友愛組織はドイツ西部のフランクフルト市、マールブルク市、カッセル市、ウィーン市、プラハ市などの数多くの都市で活動が盛んになった。この隆盛も1764年頃には衰退しはじめてきたようだが、実際のところローエンフェルト博士(Dr. Bernhard Joseph Schleiss von Löwenfeld)とヨーゼフ・W・シュローダー(Joseph Wilhelm Schröder)の努力により組織改革がなされた。そしてついに1770年から1777年の間に、バイエルン州(ドイツ南東部)、オーストリア、ボヘミア(チェコ西部)、ハンガリー、レーゲンスブルク市(ドイツ南東部)に別のバラ十字メーソン分派が起こった。最初にバラ十字思想を採用したのはレーゲンスブルク市のメーソンロッジである「三鍵の三日月」(Cescent of Three keys)であった。同じく1771年にはウィーンのホープ(希望)・ロッジが採用し、後にそこから三剣ロッジ(Three Swords Lodge)が起こった。後者は、錬金術と神秘秘術を発展させていったバラ十字メーソン分派の苗床となった。

「古代組織黄金バラ十字団」

 1776年に三剣ロッジのメンバー数人が、「古代組織黄金バラ十字団(The Golden Rosy Cross of the Ancient System)」と呼ばれる新しいバラ十字メーソン組織を設立した。この労を肩に担ったのは、プロイセンの将校でフリードリヒ大王の没後軍務大臣になったヨハン・ルドルフ・フォン・ビショッフスヴェルダー(Johann Rudolf von Bischoffswerder, 1741-1803)と、プロイセン王の経済顧問だったヨハン・クリストフ・ヴォルナー(Johann Christoph Wöllner, 1732-1803)であった。ベルリン市の「三世界全国グランド・ロッジ」(The Grand National Mother Lodge of the Three Globes)がこの組織の活動拠点となった。すなわち、〈徒弟〉(Juniores)、〈理論家〉(Theoretici)、〈実践家〉(Practici)、〈哲学者〉(Pilosophi)、〈小達人〉(Minores)、〈大達人〉(Magoures)、〈免除達人〉(Adepti Exempti)、〈大師〉(Magistri)、〈秘伝博士〉(Magi)の9段からなる位階制が採用された。この象徴的な位階は、1777年にプラハ市で開催された代表者大会の会期中に改正された文書の中から取り入れられた。

  フォルスティエール(René Le Forestier)が指摘するところによると、〈徒弟〉の教義は110ページから成るゲオルグ・フォン・ウェリング(Georg von Welling)の「Opus Mago-Cabbalisticum et Theosophicum(1719)」が再版されたものであり、ゲーテはこの書によってバラ十字思想に入門したとされる。さらに〈理論家〉の教義と儀式は、クリストフ・グレイザー(Christoph Glaser)の「Novum laboratorium medico-chymicum(1677)」からの借用であった。〈大師〉の教義の中で述べられている錬金術の諸作業はどうかといえば、ハインリッヒ・クンラートの「Confessio de Chao Physico-Chemicorum Catholico(1596)」と「永遠の叡智の円形劇場(Amphitheatrum Sapientiae Aeternae, 1609)」の二冊からとられていた。つまり、この組織の諸儀式と教義は明らかに錬金術を志向していた。

  錬金術とバラ十字思想とメーソン思想が混ざったこの運動は、「16世紀および17世紀のバラ十字会の秘密の象徴」(Altona, 1785, 1788)と題する名高い本を生み出した。見事な挿絵入りの錬金術諸論文から主として成るこの本は、三つの〈宣言書〉以後の最も重要なバラ十字書であるとしばしば言及されている。


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エッセネ派とテンプル騎士団

  メーソン組織である古代組織黄金バラ十字団(我々はここで「メーソン」という言葉を、18世紀バラ十字会とは全く無関係ながら同様の名称を使用している昨今の団体とは全く区別して使用していることを明記しておく)は、17世紀のバラ十字運動とは異なる特徴を有しており、その起源は聖マルコに洗礼を受けたエジプトの聖職者オルムスあるいはオルミサス(Orums,or Ormissus)にまで遡ると主張していた。そしてオルムスはエジプト神秘学派とキリスト教を融合させ、オルムス派(Ormusiens)を設立し、赤色で装飾された黄金の十字を象徴として用いていた。西暦151年に、エッセネ派がこの学派と結合し、この学派は「モーゼとソロモンとヘルメスの秘儀の守護者」(Guardians of the Secret of Moses, Solomon, and Hermes)という名を掲げた。

  4世紀まで、この組織は会員が7名を越えることはなかった。12世紀になって、1187年にエルサレムがイスラム教徒に奪還された時に数名のテンプル騎士団員たちが入門し、団員たちは世界中に存在するようになった。その中の三人が東方に落ち着いて設立したのが、「東方の建設家の会」(Order of the Builders of the Orient)であった。レイモンド・ルーリー(Raymond Lully)はこの組織に入会し、すぐその後イギリスのエドワード1世を入会させた。その結果、この組織の高段位者はヨーク家とランカスター家ばかりになってしまった。両家の紋章に薔薇が使われたのは、黄金の十字に薔薇があしらわれた象徴をこの組織が使用していたためであった。

「アジア秘儀入門騎士兄弟会」

  このようにして、メーソン黄金バラ十字団が存在するようになったのであった。それは伝説的な秘密組織であったにも関わらず18世紀にドイツに起こり、当時ドイツで最も重要なメーソン団となった「謹厳遵守テンプル騎士団(Templar Strict Observance)」の覚醒を促すこととなった。ここで我々は、この時代になるまでバラ十字運動は未だ発見されずじまいの諸分派や小さな集団を発生させたのみであったのに対して、メーソン古代組織黄金バラ十字団はその活動を立証する膨大な文書を残していることを強調しておかねばなるまい。更にこの組織は中央ヨーロッパに広く拡大し、プロイセンのフレデリック・ウィリアム王子(Prince Frederick-William)やロシアの大衆作家で博愛主義者であったニコライ・ノヴィコフ(Nicolai Novikov)などの数多くの著名な会員がいた。この組織は1787年に設立者によって解散させられたが、その後カール・ヘッセン=カッセル方伯(Charles of Hesse-Cassel)がグランドマスターであった「アジア秘儀入門騎士兄弟会」(Initiated Knights and Brothers of Asia, 1779)を生じさせる基となった。疑う余地なく、謎の人物サン・ジェルマン伯爵(Comte de Saint-Germain)はこの運動の一員であった。事実、サン・ジェルマン伯爵は1778年からカール方伯のもとに移り住み、カール方伯は伯爵の弟子となり後援者となったのであった。


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バラ十字段位

  フリーメーソンの教義の中に実際にバラ十字の高段位が現われたのは、古代組織黄金バラ十字団が出現したのと同時であった。その最初の存在が確認できるのは、「叡智の子らの会」(Children of Wisdom)と「調和ロッジ」(Concord Lodge)の活動の中での1757年にみられる「バラ十字騎士」の称号である。我々がすでに見てきたように、バラ十字の段位はすぐにメーソンの最高段位ネク・プラス・ウルトラ(nec plus ultra)と見なされた。この段位は1786年の〈メーソン・フランス分派〉と、〈第18古代組織〉(the Eighteenth of the Ancient)と〈公認スコットランド分派〉の第七段であり最終段位であった。しかしながらこのことは、多大な論議を呼びかねない特異な状況を示すものである。というのも、ここまではメーソンの段位はひたすら叡智の普遍性を強調してきているのに対して、この段位でははっきりとキリスト教が特徴付けられているのである。このため19世紀には、何人かのフリーメーソン員たちがメーソンの象徴を哲学的に解説する試みによって非キリスト教化を図ろうとした。このことに関して、シャルル・テオドール・ツォーディ男爵(Baron Charles Theodor Tschoudy)はその著書「燃えさかる星」(L'Etoile Flamboyante,1766)の中で、「カトリック教理が段位の中に入れられている」と理解した。確かに、17世紀のバラ十字運動に見出されるものを指していないというのは真実である。クリスチャン・ローゼンクロイツについて論ずるよりむしろそこでは、〈ゴルゴタの丘での磔〉とその後の〈キリストの復活〉が描写され、パンとワインが振舞われる、〈最後の晩餐〉に酷似している愛餐(初期キリスト教徒が同胞愛のしるしとした会食)の儀式から、段位が構成されている。この段位に入る時、入段者は〈エルサレムの殿堂〉の破壊に伴う驚異を追体験するのである。彼らは〈失われた言葉〉を探求しており、その旅によって三つの徳である信頼、希望、寛容を見出す。そしてついに、I.N.R.Iに秘められた意味が明らかにされる。

  バラ十字段位の最も古いものは、1760年付けのストラスブール市のものと1761年付けのリヨン市のものであるが、そのほんの数年後にはフランクフルト市に「黄金バラ十字会」(Socieats Roseae et Aureae Crucis)が出現する。メス市(フランス北東部)のメーソン支部とリヨン市のメーソン支部の間で取り交わされた1761年7月付けの書状では、リヨン市の支部がメス市の兄弟たちには知られていない段位を実施したことがわかるが、しかしこれらの〈鷲の騎士〉、〈ペリカン〉、〈聖アンデレの騎士〉あるいは〈ヘレドムのメーソン〉は、メーソンバラ十字段位の単なる別の呼称である。この段位の別のバージョンに伴う講演では、古国シバ、インドのバラモン、ゾロアスター教のマギ、ハイエロファント、ドルイド僧に言及することで組織の起源を描写し、これらがバラ十字会の祖先であると説明している。バラ十字会はエジプト文明、ゾロアスター教、ヘルメス・トリスメジストス、モーゼ、ソロモン、ピタゴラス、プラトン、そしてエッ セネ派の流れを汲む秘伝主義の系譜を継承する役割を演じてきた。この繋がりは、ミヒャエル・マイヤーが「Silentium Post Clamores(1617)」の中で提示し、そしてルネッサンス期のヘルメス思想の中で大切に育まれていた〈原初からの伝統〉の概念の復活を想起させる。この概念は、「メーソン騎士管理委員会」(Regulator of the Knights Masons)あるいは「G.O.の支配による四つの上層組織」(Four Superior Orders According to the Regime of the G.O., 1801)の中に再び見出すことができる。


霊的騎士道

  メーソンバラ十字の段位の中に見られる要素は疑いの余地なく、1760年にストラスブール市で発見された手稿が元であった。「De la Maçonnerie parmi les Chrétiens(キリスト教徒の中のメーソンについて)」と題するこの文献は、メーソンはエッセネ派のバラ十字守護者であった「聖墓正典会」(Canons of the Holy Sepulchre)を継承していることをほのめかすという風変わりな方法によってフリーメーソンの起源に触れている。これらの正典は後にメーソンの秘密の教義としてテンプル騎士団に伝えられたものと思われる。

  古代エジプト文明もエッセネ派もテンプル騎士団も、メーソンバラ十字の段位における入門儀式形式の源泉であると見なされていた。彼らはバラ十字運動を、古代宗教の賢者たちやエッセネ派やテンプル騎士団を通じて理想化された原初キリスト教と結び付けようとしている。実際彼らは、系譜の源泉についてや、別の入門儀式形式の流派との関係について再び問題提起をしている。

  メーソンバラ十字団が描いた会の起源の提示方法は、実は字義通りに受け取ることはできないものであり、アンリ・コルバンはフォルスティエールがこのような観点からのみこの主題を研究して自己満足してしまっていると非難した。オルムスなる人物が果たして本当に存在していたかどうかは、大して重要な事柄ではない。アンリ・コルバンによれば、この系譜は歴史的慣例や制度を脇においておくことによってのみ、理解しうるのである。エッセネ派や「聖墓正典会」やテンプル騎士団は、基本的には〈新たな高次の実在〉を喚起する象徴として考究されなくてはならない。従って、我々に失笑を引き起こさせるような、本来の意味を失ってしまっているのにテンプル騎士団の儀式や装具を復活させることでその継承者を装っている組� ��などには、注意せねばなるまい。ジョゼフ・ド・メーストル(Joseph Marie de Maistre, 1753-1821)は著書「Memoire au duc de Brunswick」の中で、入門儀式形式はテンプル騎士団以前にも存在しており、そしてそれ以後も存在し続けているのだと言っている。

  アンリ・コルバンは、我々がこれまで述べてきた組織・団体に関する伝説のいくつかの要素を観察し、それらは〈霊的騎士道〉を通じて霊的に継承されてきたと考察した。この〈光の友愛組織〉は〈霊的殿堂〉―すなわち人間と〈創造主〉との調和―へと人類を上昇させる〈創造〉の原初の原初から現在に至るまで活動し続けている。コルバンによれば、「この系譜の継承は、内在的な歴史的因果関係に依存するものではない。それは象徴によってのみ表現することができる。そして象徴の伝達者は、象徴的人物へと高められるのである。」

  この目的のために活動している霊的運動の系譜は、可視の歴史の中にではなく、ヒエロヒストリー、すなわち〈聖なる歴史〉の中に見出されるものである。この考え方からすれば、異なるいくつもの運動を字義通りにとらえるのではなく、その諸運動のなかに一つの継承を見ることは間違っていないのである。しかしながら、我々がここで述べているバラ十字(ローズ・クロワ)の時代は、しばしば〈霊的騎士道〉の珠玉と見なされていたことをここに記すべきであろう。


エンライトメントとイリューミニズム

  このようにして、18世紀は多数の入門儀式形式秘伝組織の設立をみた。我々がここで言及しているのは、「メーソンバラ十字」に直接または間接に関係していたもののみである。しかしながらバラ十字運動は、我々がこれまで検討してきた運動を超えて秘密裏に徐々に展開し続けていたことをここに付け加えさせていただこう。そういった組織の増殖は、秘伝主義世界にしばしば混乱を生じさせた。それらの正面衝突は、〈啓蒙思想(Enlightenment)〉を好む実証主義者と〈光明派神秘主義(Illuminism)〉を好む精神主義者との間にすでに起こっていた。ナポレオンのエジプト遠征にともなって、この古代大陸へのヨーロッパの関心は次第に大きくなっていったが、西洋秘伝主義は新たな地平を開くマグネティズム(磁力=Magnetism)の発見に揺さ ぶられたのである。

( 「バラ十字誌」  No.102 より )

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